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高校卒業、そして

 まず、前回の投稿は結構私的になりすぎた話で、このブログをご覧の方には分からない部分もあったかもしれません。その点はご了承下さい。

 さて、前回の投稿の通り、無事高校を卒業する事が出来ました。早かった3年間。多くの良い人々に接する機会に恵まれ、様々な苦労も経験しました。中学時代は言ってしまえば不良だったので、あまりよい思い出もなく、中学校に挨拶に行ってもやっぱり伝説化している話がわんさか出ましたが、中学の先生方も中学時代からの友人も「お前はどうなったのか」と言う位変わったみたいです。そして、教育学部に進学という旨を伝えると、もちろん冗談半分ですが「間違っている」とか「反面教師になるんだな」と散々な言われようです(笑)。

 卒業までですが、ほとんど2月丸々自宅学習期間だったので、進路内定したこともあり、教習所通いでした。修了検定の坂道発進でエンストしまくり、1時間補習を受けましたが、その後は順調に行き、卒検もクリア。免許センターに行って無事免許取得しました。家の車で練習を続けていますが、バックはまだまだ慣れません...。埼玉では車に乗らないので、家で十分に練習して、感覚を忘れないようにしておきます。


 ただ、2月の途中で教習を一週間ほど休み、家族で北海道旅行に行ってきました。行きは宇都宮から寝台特急北斗星に乗車。私は保育園のころに、父親の強い希望で寝台特急サンライズ瀬戸に乗車したことはあるのですが、記憶はほとんど無く、今回が寝台特急を存分に楽しむ始めての機会となりました。宇都宮から乗車だと、夜8時半を回っているので夕食は食べられませんでしたが、その分パブタイムで父親とシチューを食べたり、土産を買ったりしました。ツインに乗車しましたが、本当に乗り心地がよかったです。深夜、仙台付近から徐行運転が続き、札幌には定刻より30分ほど遅れて到着しましたが、楽しい時間でした。

 札幌では昼食後、私はバスターミナルで時刻表をもらい、私以外の3人は時計台へ。しかし、外観を見ただけですぐに駅に戻ってきたらしく、予定も順調なので、1本早い富良野行きの高速バスに乗車し、富良野へ向かいました。父親たっての希望で富良野では新富良野プリンスホテルに三泊。目的はスキーです。私と母親、妹は2日目に行きは快速ラベンダー号→78番系統の旭川空港-旭山動物園線を利用し、旭山動物園へ。バスが予定より早着したので、私だけ旭山の送信所に行ってきました。HTBは鉄塔頂上部のアンテナが外され、鉄塔のみに。そして、uhbとHTBはあまりの雪の深さにブーツで行かなかった私(普通のスニーカーだった)は鉄塔の真下まで行けませんでした。また、デジタル局舎では作業していたようです。
 旭山動物園ではペンギンの散歩も見る事が出来、母親も満足。昼1時ごろにバスで市内へ向かい、母親と妹は買い物公園周辺をショッピング、私は三浦綾子記念館に向かいました。三浦綾子の「塩狩峠」は本も読みましたし、昨年宗谷本線で通っても来ました。だから、今回記念館に行けたのは本当によかった。クラスの女子にも薦められ、まだ読んでいない、名作「氷点」も早いうちにじっくり読みたいです。
 その後、3時半頃の富良野線で富良野へ向かい、バスでホテルへ。翌日は私はスキーを楽しみました。北海道の雪は東北や新潟の雪とは全くの別物で、ふわふわなので、昼頃になると整地もされず、コースは荒れ放題。足も疲れてきたので3時前には退散。ゆっくりと休みました。

 翌日は朝、ラベンダー号で富良野駅まで向かい、10時発のふらの号で札幌へ。札幌で鉄道に乗換えます。ここで大問題発生。翌々日に乗車予定の寝台特急カシオペアがなんと道南・青森方面の大雪で運休決定。一番の目的にしていた父親はショックと怒り。代替手段はもちろん飛行機しかないので、JRのツインクルプラザですぐに福島空港行きの飛行機のチケットを手配してもらいました。そのあとも、3時前のスーパー北斗に乗車予定だったのですが、ずいぶんと道南では大雪だったらしく、30分以上遅れての発車。父親は鉄道ファンなので、振り子式列車初乗車で、結構喜んでいました。登別に1時間ほどで到着後、タクシーで登別温泉街へ。高級旅館の「滝乃家」に宿泊。十分すぎるぐらいのサービス、申し分ありませんでした。ただ、登別温泉は硫黄のにおいがきつく、栃木に戻ってもなかなかにおいが落ちなかったのはちょっとした思い出です。

 最終日、札幌経由で小樽へ向かい、昼食。運河を見て、新千歳に行き、お土産を簡単に買い、福島空港へ。飛行機は、陸上自衛隊のイベントで乗せてもらったのと、修学旅行と今回で3回目。1年に1回ペースで飛行機に乗っている計算になります。1時間半弱で福島に到着し、リムジンバスに乗車、着陸が若干遅れたのでバスも合わせて遅れて、新幹線もギリギリ。夜の9時半頃に自宅に戻ってこれました。


 2日後には卒業式。しかし、あまり先生方とも話が出来ないまま終わってしまい、友人も同様だったので、友人の受験報告も兼ねて今日学校に行ってきました。多くの先生と話して、思い出話に浸り、アドレス交換したり、これからの目標とか大学生活の指南を頂き、3年間ずっと通い続けた私を含めた男3人で、宝積寺に戻ってから宇都宮の清原まで自転車で30分かけて、ラーメンを食べに行き、帰りに中学時代の先生に報告して、戻ってきました。

 今、中期・後期試験も終わりましたが、やっぱり前期で落ちた友人も多く居て、まだ話しかけたり、連絡できる状況ではなかったりします。やってきた事が実るように祈るだけですが、一人でも多く志望進路に進めることができれば、と思います。ちなみに私は先週の土日に後輩を連れて房総半島一周しました。今後は明日、茨城大に合格した友人と茨城観光と大学下見、その後矢板でクラス会に参加。明後日からは18きっぷで兵庫に帰省する予定です。準備も万端で無いので、さっさとやっておきます(汗)
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シリーズ「堪忍袋の緒が切れる時」②

 今日は久しぶりのジャンルです。そして、タイトル見て「何これ?」って思われた方もいるはずです。
 実は1回、このシリーズやってるんですが、シリーズになってないんですよね(笑)。しかし、高校生活の約3年の間にも腹立たしいことは当然ながら多く起こり、そしてしばらく経っても消えない怒りを出してみたいと思います。こういうのが嫌いな方はスルーでお願い致します。


 さてさて、今回の私の怒りは、「東日本大震災」です。世間一般には国の対応の遅さや原発事故などなど多くあるかと思うのですが、少々私的な話をさせてもらいます。

 怒りの的は「私の通っていた高校の校長」です。報告が遅くなりましたが、無事3月1日に県立高校を卒業してきました。卒業するまでは生徒会長やらなんやらで結構立場もあり、やはり自己を守らざるをえなかったのですが、もう卒業してしまえば、こっちのもん、ということで、周りの多くの方の薦め?等もあり、話します。



 私の通っていた高校は、栃木県北部の矢板市にあります。高校近くには国道4号も通り、矢板駅からも歩いて10分ちょっとぐらいです。
 私が2年の時にその校長は異動して来ました。最初の印象は、自己主張がしっかり出来て、いい考えを持っている、といった好感でした。他の友人もいっしょでした。ただ、月日が経つうち、生徒会役員をやっていた友人からは「メチャクチャ言うてるだけ」という話を聞き、疑いも持つようにもなりました。
 その後、一昨年の秋に生徒会長になった私は、座談会等で直接話すようにもなりました。ただ、おっしゃっていたのは要求だけ。我々の要望には耳を傾けようともしない姿勢はその時から薄ら薄ら感じ始めていました。

 そして、昨年3月11日。東日本大震災が発生しました。当時のブログの記事にもあるとおり、高校では授業中、すぐに先生方と校庭に避難しました。矢板市は震度5強。余震も続き、とても不安でした。私は友人らと自転車や友人の父親の車に乗せて貰い、高根沢まで帰りましたが、通っていた高校の通学範囲は北は福島県境ギリギリのところから南は宇都宮まで、と大変広く、電車もバスもない中、4号線も大渋滞の中、帰る手段は簡単にはありませんでした。ですから当然ながら、遠くから通っている生徒は親の迎えを待つしかなく、先生方は夜の9時ごろまで体育館に帰れない生徒を待機させ、ストーブをつけて、パンや牛乳などを職員室などから差し入れて持ってきてくれたそうです(当時いた友人談)。先生方も生徒の確認や面倒を見つつ、日の昇っているうちに学校のなかを片付けようとすぐに職員室に集まっていました。翌日以降は通常の仕事が出来るように、大変苦労なさっていたと、先生から直接話を伺いました。

 その当時、校長は宇都宮で県立高校の校長の会議があったそうです。当然のことながら、会議は中止になったそうで、帰ってこようとした、ここまではいいのです。しかし、帰る先がなんと高校ではなく、自宅だったと言う事。ちなみに自宅は那須地域にあります。ちょうど中間にある高校には寄らずに、自宅に直行したというのです。
 普通は、こういった災害があったとき、長を勤める勤務先に直行し、職場の人間はもとより、学校でありますから生徒の安否などを心配するはずです。それが真っ先に家へ帰ったと。高校へは、電話確認で教頭先生に確かめただけとのこと(先生談)。

 これらの話は、昨年の春に他の高校へ異動になった複数の先生から伺いました。あまりにもひどすぎて、聞いたときには絶句してしまいました。しかし、話はこれだけでは終わりません。


 約1ヵ月後、学校の新学期が始まったある日の放課後、余震が発生。その時、校長は学校に居たのです。しかし、客が居るから、という理由だけですべて教頭先生に委任。その際に教頭先生が「学校から出なさい、早く帰りなさい」とおっしゃったこともあり、生徒は店も入れない、電車も動いていない、バスは便自体無い、電話もつながらない、そして雨が降ってくる中を彷徨うしかありませんでした。私は部活の部長をやっていたので、部室の鍵を持っており、部室を開けて、コンロを焚いて暖をとらせ、周りに居た生徒を入れました。他の鍵を持っていた部長の友人らも同じようにしていました。
 ただ、このときの学校の対応には多くの生徒が、震災以上に不満を募らせて、私や他の役員のもとに学校側への抗議や説明を求めるようになりました。

 後日、教頭先生の発言に対して我々が質問をし、教頭先生からは「当時、職員室に電車が運転再開したという情報があったので、それでそういう指導をした。しかし、あとで誤報だと分かり、まだ残っていた生徒は震災時と同じ通りに対応した。これからはしっかりと情報も確認をする」という返答とあわせて生徒への謝罪を頂きました。多くの生徒はこの件については、教頭先生からの説明があったと言う事で、理解をしてくれました。


 しかし、今回のような災害はいつまた起こってもおかしくない、そして我々には反省点も多くあった、ということから、生徒会ではいろいろと考えて、6月にある、生徒・保護者・学校の三者が話し合う場での、生徒会側からのテーマとして、「災害時の三者の共通マニュアル」のようなものを作る、といったことを提案しました。三社で今回の震災時を反省したり、それぞれの対応を考えたりすることで混乱をなるべく避けられるよう、軽減できるようにしたい、といった旨のものです。これは生徒会はもとより、多くの生徒や先生方からも共感を得る事が出来、自信を持ってプランを進めました。

 ですが、やはり校長のメスが。話せば都合の悪い事が、保護者の前で明るみになってきます。それが嫌だったのでしょう、ボツ。でも、我々だって生徒代表の意見ということもあり、懲りずに推しました。しかし、生徒会の顧問の先生からも「残念だけど…」という話。
 我々は葛藤しました。私は毎日家に帰ってからも企画書の打ち直し、今日の話し合いの反省、まだこれは生徒会長の役目としたら楽です。就職してからの仕事はこれ以上に辛いものなのかもしれません。そして、役員たちも毎日のように考えをメールしてくれたり、話してくれたりしました。先生方も相談に乗ってくれて、アドバイスも多くくれました。役員でない多くの友人も、今だからこそやってほしい、といった強い要望を出し続けてくれました。
 それでもダメ。私は絶望的になったときもありました。しばらくして、自殺なんかといった軽率な考えすら出てきました。しかし、テレビで毎日、矢板以上にひどい太平洋沿岸の津波の被災地を見ていると、そして生きている人々を見ると、アカンと思えました。こうなればできる限りの手は尽くさねば、と考えて、保護者の手を借りることにしました。PTA会長が私もよく知る友人のお母さんで、電話で「そういった話を少しでもいいので話したい」とお伝えし、「我々も出来る限りのことをする」という返答を頂きました。しかし、学校(というよりは校長)はほかのテーマを出せ、とずっと言ってきます。もうこちらとしても打つ手は打ったので、最悪の形として、座談会の全役員と出席予定の生徒欠席を計画しました。我々の伝えたい意見を聞き入れてももらえないのなら、最悪その手も考えて欲しい。役員にはそう連絡しました。もちろん賛否両論。でも、我々が一番必要としている、そして将来のためにもなること、この2点を考えれば、私はそうせざるを得ないと考えました。

 座談会当日。私は真面目に作れてもいない、考えられてもいない、ただの形だけに過ぎない第二案を作っていました。協力してくれている保護者の皆さんには裏切る事が出来ないと思い、しかし多くの人間に申し訳なさを感じつつ、印刷しました。多くの役員が、生徒が、何か煮え切らない態度で座談会に臨みました。私も精一杯笑顔で返答し続けましたが、限界とのギリギリでした。そして、最後のころにPTA会長さんから話が出され、生徒の意見を述べる機会が続きました。役員はもとより、各クラスの代表生徒からも厳しい意見が出されました。最後に私が代表して、それまですべて答え続けてきた教頭先生ではなく、学校の長である校長本人からどう考えているのか、そしてどう改善するのか、答えを求めました。しかし、返答は政治家的な「前向きに」といった曖昧なものでした。

 もちろん、多くの生徒は不満と不安を抱えたままです。生徒会長最後の挨拶のときも、この件について、皆さんが引き続き関心を持ちつづけ、風化せぬうちに将来のためとなるよいものを作って欲しいと述べました。校長にはその後呼び出しされたので、受験生だとかそういったことを全て捨てて、思っていることを全部出してきました。1時間近く激論を繰り広げました。校長は、放射線量だとかそういう出来ることは全部やってるつもり、と我々が代表して述べてきた意見とは全く違うことしか主張せず、つもりということはまだまだできる事があるだろうと言えば、保護者と生徒の間の話は家庭の問題だ、などと結局はやりたくないということしか言っていませんでした。


 まもなく震災から一年、あっという間に我々は何も出来ませんでした。そして、自己の利権しか考えていないアホンダラの校長はまだ居座っています。だから、まだ生徒や多くの先生方、そして保護者は不満が残っています。震災の時、学校の生徒職員よりも自分の家族を最優先させた校長。危機管理能力が全くと言ってありません。そしてその校長が今でも校長として、学校にいることに私は憤りを感じます。一刻も早く、学校の主役である生徒の意見を聞くことができ、学校という場で生徒を最優先に守ってくれる人間が長になってくれるように願ってやみません。栃木県教育委員会、ええ加減どうにかしてくれ。
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Author:みーや@栃木
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